現実描写について

f:id:countdown00:20130618200713j:plain

 

 

アウエルバッハの『ミメーシス』を読んでいて考えることは、現実描写と合わせて現実認識の問題である。例えば、第19章で挙げられているゴングール兄弟とゾラとの違いについて、身分の高いゴングール兄弟は下層民をキッチュとして取扱い、それほど高い身分ではなかったゾラは、下層民を社会の現実の一端として見ていた、とアウエルバッハが分析している点。つまりは、創作者自身がどの立ち位置で現実を見ているかによってその表現も違ってくるという、構造主義のようなメタ条件が現れてくる。

こういった全体の中での身分の高低と共に考慮されるのは、各々の身分の中で辺境にいるのか中心にいるのかという関わり具合の問題である。身分が高い方も低い方も中心の位置に近いほど、自分の認識する現実を描写するのは憚られるものである。すなわち、多くの人に配慮しなければいけないというしがらみと、現実にその位置を保ち続けたいのならばある程度はオブラートに包まなければならないという自己保身とを考えないわけにはいかない「当事者」であるということである。逆に、身分の高低にかかわらず辺境に位置するほど、配慮やしがらみ・保身に関係なく、自分の現実認識を描写できる自由を持つ。身分の高い人であれば普通の美的趣味に飽き足らない際物的な好みから、身分の低い人であれば疎外感から、社会を斜めに見る視点を手に入れる。とかく現実は、真正面からまともに見るだけでは、誰かが仕掛けた罠にはまり込むだけであるのだから、その視点は重要である。

但し、中心に位置してはいても、創作者本人の意図を超えて、憚られていた現実が透けて見えてくることもある。ゾラが北仏の炭坑地区の生活を描いた「ジェルミナール」をアウエルバッハが取り上げていたいたことからの連想で、山本作兵衛の絵が思い浮かぶ。作兵衛は自身が鉱夫として働いた炭鉱の現実を、絵と文字で記録した。初めはすべて文字で書いて家族に見せたが、これが公になれば自分たちはこの土地で暮らしていけなくなると諌められ、原稿はすべて燃やし、絵で描くことにしたという。しかしその絵にも、炭鉱の中心にいたことにより憚られた現実が滲み出さずにはいられない。それは、稚拙さとして片付けられてしまいそうな鉱夫たちの無表情さと、公にできないほどリアルに描ける作兵衛が急に迷信的・幻想的な表現をしている、多数のキツネが訪問したのちに怪我人が死んだという話に読み取れる。炭鉱では怪我人は最早役に立たず養ってもいけないため、恐らくほとんどの人の合意かあるいは暗黙の了解で殺されたのではないか、そういう地獄を見、地獄で生きていくうちに鉱夫たちは表情を失ったのではないか。隠れた現実の一端が見えてくるとき、それを描写する能力がないから隠れているのではなく、それが現実であるが故に描かなかった、という状況も現実描写の一つであると私は考えている。