『科学忍者隊ガッチャマン』第1話「ガッチャマン対タートル・キング」その1

1972~74年に放送されたテレビアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』全105話について、
1話ずつ個人的に押さえておきたい見所を書いていく。
(参考文献『科学忍者隊ガッチャマン 鑑賞の手引き 《改訂版》』
GLO&ガッチャマン対策本部 合同編集、
 
第1話「ガッチャマン対タートル・キング」 
 
後にエンディングになる「倒せ! ギャラクター」がオープニングに、
後にオープニングになる「ガッチャマンの歌」がエンディングにきている。
今となると、どう考えてもオープニングは「ガッチャマンの歌」だが、
歌詞を見ると(タイトルもそうだが)「倒せ! ギャラクター」の方が、
子供がガッチャマンと同一化して歌えるような視点になっているところが、
オープニングとして作られたということだろうか。
ガッチャマンの歌」は、いきなり誰だっで始まり、飛べとか行けとか第三者的視点で、
どこか見守っているようなエンディングっぽい雰囲気がなくもない。
 
ガッチャマン以前の、集団で敵と闘うタイプの話では、
例えば、「サイボーグ009」や「七人の侍」、「水滸伝」、
南総里見八犬伝」、「三国志」は、
メンバー集めあるいはメンバーが集まってくるところから始まっているが、
ガッチャマンではすでにメンバーがそろっている。
しかもメンバーだけでなく、
ガッチャマンという作品全体を貫く注目すべき数々の特徴が、
この第1話から惜しげもなく詰め込まれているのだ。
(おかげで、第1話は尺が足りず、次回に結末が繰り越されているほど)
以下に話を細かく追って見ていく。
 
鉄獣と呼ばれる巨大怪獣ロボット、タートル・キングでギャラクターが盗んだものは、
ウランの入った小さなトランク一つのみ。
ここで早くもギャラクターの行動パターンの一つが現れている。
つまり、トランク一つ分のウランを盗むために、
最新の巨大貯蔵施設を一瞬にして破壊するほどの科学力(=タートル・キング)を
駆使するという、とても大げさで遠回りな手法を好むギャラクターの特徴だ。
盗んだウランを一体どのように利用するつもりなのか、
その辺りは判然としないが、そもそもタートル・キングを作るだけの科学力があれば、
ギャラクターの最終目標である世界征服のためには、もっと近道があると思われる。
にも関わらず、彼らはあらゆるところで計画の杜撰さや詰めの甘さを見せる。
(世界征服という大雑把な目標を掲げる組織は、そういうものかもしれない、
という意味では、ギャラクターのおかしな行動はリアルなのかもしれない)
 
タートル・キングの出現を受け、国際科学技術庁(ISO)という
いかにも実在しそうだがよく見ると大雑把な名前の組織が会議を開く。
(大雑把には大雑把を?)
この会議場を見下ろすような位置に、科学忍者隊の創設者
南部博士(南部孝三郎)が登場する。
ISOに集結した各国代表にもタートル・キングを操る者の正体がわからないのに、
「わかっている。ギャラクター一味です。」
と断言するのだ。
しかもすごいことに、アンダーソン長官以下各国代表はみな直ちに納得してしまう。
さらに、「優秀な諜報部員でも探れなかった本部を探り出せる者などいないだろう」
という意見にも、南部は「いる!その名を科学忍者隊!」と断言する。
(当初はガッチャマンよりも科学忍者隊という名称の方がメインで使われている)
この南部の断言癖は後々まで衰えることなく、
ことあるごとに彼は断言していく。
第1話の初登場シーンで南部の最大の特徴しか出さないこういった演出は、
ガッチャマンのすばらしさの重要な要素だと私は考えている。
 
 いよいよ科学忍者隊のメンバー五人の登場シーン。
よく見るとわかるが、ガッチャマンと呼ばれているのは、
この時点では大鷲の健こと鷲尾健のみ。
つまり当初はガッチャマンとは科学忍者隊のリーダーのみを指す言葉だったが、
次第に拡大していき、後には五人ともガッチャマンと呼ばれるようになる。
設定がなっていない、と侮ってはいけない。
多分、現実がそうだったのだ。
視聴者である子供たちが、制作側の意図とは関係なく、
科学忍者隊よりもガッチャマンという名称でこの作品のを呼ぶようになったのだろう。
だから当然健だけでなく、五人のヒーローすべてをガッチャマンと呼ぶのは
自然な流れであり、制作側が受け手の反応を柔軟に取り入れた、
というのが私の予想だ。
これはとても幸せな創造行為のパターンだと思う。
さて、この時点でただ一人ガッチャマンであった健(G1号)は、
やはり他のメンバーより頭一つ飛び出している点がある。
それは、彼だけ彼の乗り物(飛行機)ごと変身するのだ。
しかしよく考えてみると、この能力はぶっ飛んでいるかもしれないが、
特に戦闘能力とは関係ない。
逆に言えば、リーダーとはそういうものかもしれない。
言葉で説明できる具体的な能力よりも、
言葉で説明できないが、
みんなにわかるほどわかりやすい特徴となって現れるもののほうが、
リーダーには必要であり、それは、
能力があるから出世できるわけではないということにも繋がっていく。
 
ガッチャマンという作品の持つシュールな部分は、
シュールにしてやろうという浅はかな意図に基づいているのではなく、
まじめにやった結果シュールになってしまったというものだ。
だから、矛盾するかもしれないが、作られたものではなく、
制作側の意図をも飛び越えて物事の根本にまで
期せずして届いてしまっている面がある。
これが、私にとってのガッチャマンの最大の魅力なのだと思う。