『科学忍者隊ガッチャマン』第1話「ガッチャマン対タートル・キング」その1
真偽の領分
2000年に放送された三谷幸喜脚本のテレビドラマ「合い言葉は勇気」の主人公、
暁仁太郎は、佐村河内守を彷彿とさせる。
役者である暁は、とある村の青年に頼まれ、
ニセ弁護士として、その村の環境を破壊するゴミ処理業者と闘うことになる。
弁護士の資格がない者が弁護士と偽って法廷に立つことは犯罪と知りつつも、
聞く者を引きつける演技力で自ら風呂敷を広げていく暁は、
村民たちに立派な弁護士であると尊敬され、彼らの信頼を勝ち得ていく。
そして物語の後半からは、法廷ドラマを手がけた経験のある構成作家・毛野が、
(物語の中では)現実の訴訟に際してのシナリオを考案していく。
途中で暁が偽者であることがばれるのだが、
毛野の奇抜なアイデアでするりと危機を脱していく。
「合い言葉は勇気」では、偽物か本物かという真偽が重要なのではなく、
偽物であろうと本物であろうと面白いか面白くないかが問題にされているように見える。
つまり、面白いか面白くないかは、真偽を超えているのだ。
資格がないまま法廷に立つ事態を避けるため、
暁が裁判を諦めるように村民たちを説得するための原稿を頼まれたとき、
毛野は、裁判を起し徹底的に悪徳業者と闘うバージョンのセリフも用意していた。
毛野は、この流れだと裁判をしなければドラマでは視聴者が納得しない、
自分としては、業者に宣戦布告をするバージョンを読んで欲しいと言う。
毛野にとっては、現実だろうがドラマだろうが関係なく、
面白いか面白くないかが問題なのだ。
また、現実では当事者(被害者)であり、
ドラマに例えるなら視聴者と言える村民たちにとっても、
弁護士が本物であるか否かではなく、
自分たちのストーリーの流れに満足するかしないかが重要になる。
暁がニセ弁護士だとばれた後、
本物の弁護士をお飾りとして連れてきて、結局はこれまで通り暁が、
病弱でしゃべることができないフリをしている本物の弁護士の代わりに
法廷で熱弁をふるうのは、大変皮肉な光景である。
嘘か本当かということと、ストーリー性があるかないかということは、
別の次元に属しているのだ。
実際、巧みにストーリーが取り入れられ、
物事が動かされているという現実がある。
一般的にも、職場で上長を説得し納得させるために、
具体的な数字とともに、これだけのことをこういう風にやった結果、
このプロジェクトがベストである、あるいは、この稟議を持ってこざるを得なかった
というストーリーがつくられるのは日常茶飯事と言っていい。
さらに数字はどの部分を採用し切り取るかで用意に変わり得るし、
ときには多少なりとも粉飾を施し操作され利用される。
根拠というものは、その根拠の根拠はというように無限に根拠の遡行を引き起こし、
根本的で決定的な根拠というものが果たしてあるのか、必用なのか、
この世界がなぜできたのか私たちがなぜ生まれたのか問うのと同じくらい
答えられないものであるという本質を持っている。
生命が地球に誕生するための条件ならいくつも上げることができても、
なぜ生命が発生したのか、その理由の説明にはならない。
適合条件がいくら整ったとしても、生命は生まれても生まれなくても
どちらでもいいというのではなく、生命が生まれる必然性があった根拠は、
誰にも答えることは出来ないし、答える必要はないと私は思っている。
たぶん生命は、根拠なく生まれてくるものなのだろう。
究極を言えば、嘘でも本当でも根拠などないのだ。
そして物語は、「真実の物語」も含めて、すべて作り物なのである。
しかし、佐村河内事件によって引き起こされた一般の反応を見る限り、
人々は、物語とは何かとすら問うこともないまま物語を買い、
消費しているようだ。
大元の根拠と、その根拠をいったん留保した上での適合条件という、
次元の違うものがごちゃ混ぜにされ、根拠が適合条件に乗っ取られたとき、
物語に真偽の問題が発生することになる。
つまり、そもそもないはずの問題がつくられるのだ。
佐村河内の件で人々が問題にしているのは、佐村河内の物語(作り話)が、
社会のルールに適合しているかどうかであり、本当は、それが嘘か本当かではない。
人々が感動したという佐村河内の楽曲や物語と、
彼が社会のルールに適合しているかどうかとは別の問題である。
彼(あるいは彼ら?)はむしろ物語のルールに則り、
楽曲だけでは作り出せなかった感動を生み出したといっていい。
「真実の物語」も含めて、物語は作り物であっていいし、
私たちは現実に、作り物に取り繕われ救われて生きているのだ。
佐村河内の存在は、ある意味この世界の真実の反映であり、
その点を見ようとしない物言いこそが偽物と思われる。
現実描写について
アウエルバッハの『ミメーシス』を読んでいて考えることは、現実描写と合わせて現実認識の問題である。例えば、第19章で挙げられているゴングール兄弟とゾラとの違いについて、身分の高いゴングール兄弟は下層民をキッチュとして取扱い、それほど高い身分ではなかったゾラは、下層民を社会の現実の一端として見ていた、とアウエルバッハが分析している点。つまりは、創作者自身がどの立ち位置で現実を見ているかによってその表現も違ってくるという、構造主義のようなメタ条件が現れてくる。
こういった全体の中での身分の高低と共に考慮されるのは、各々の身分の中で辺境にいるのか中心にいるのかという関わり具合の問題である。身分が高い方も低い方も中心の位置に近いほど、自分の認識する現実を描写するのは憚られるものである。すなわち、多くの人に配慮しなければいけないというしがらみと、現実にその位置を保ち続けたいのならばある程度はオブラートに包まなければならないという自己保身とを考えないわけにはいかない「当事者」であるということである。逆に、身分の高低にかかわらず辺境に位置するほど、配慮やしがらみ・保身に関係なく、自分の現実認識を描写できる自由を持つ。身分の高い人であれば普通の美的趣味に飽き足らない際物的な好みから、身分の低い人であれば疎外感から、社会を斜めに見る視点を手に入れる。とかく現実は、真正面からまともに見るだけでは、誰かが仕掛けた罠にはまり込むだけであるのだから、その視点は重要である。
但し、中心に位置してはいても、創作者本人の意図を超えて、憚られていた現実が透けて見えてくることもある。ゾラが北仏の炭坑地区の生活を描いた「ジェルミナール」をアウエルバッハが取り上げていたいたことからの連想で、山本作兵衛の絵が思い浮かぶ。作兵衛は自身が鉱夫として働いた炭鉱の現実を、絵と文字で記録した。初めはすべて文字で書いて家族に見せたが、これが公になれば自分たちはこの土地で暮らしていけなくなると諌められ、原稿はすべて燃やし、絵で描くことにしたという。しかしその絵にも、炭鉱の中心にいたことにより憚られた現実が滲み出さずにはいられない。それは、稚拙さとして片付けられてしまいそうな鉱夫たちの無表情さと、公にできないほどリアルに描ける作兵衛が急に迷信的・幻想的な表現をしている、多数のキツネが訪問したのちに怪我人が死んだという話に読み取れる。炭鉱では怪我人は最早役に立たず養ってもいけないため、恐らくほとんどの人の合意かあるいは暗黙の了解で殺されたのではないか、そういう地獄を見、地獄で生きていくうちに鉱夫たちは表情を失ったのではないか。隠れた現実の一端が見えてくるとき、それを描写する能力がないから隠れているのではなく、それが現実であるが故に描かなかった、という状況も現実描写の一つであると私は考えている。
異化効果の照らすもの
1.ふたつの異化
文学上での効果として、異化という手法がある。それは、日常的に慣れ親しんでいるものを、例えば宇宙人の目から見た人間を描写するときのように、対象を奇妙なもの、滑稽なもの、非日常的なものに変容さてしまう手法を指す。ヴィクトル・シクロフスキー(1893~1984)が、『散文の理論』(1924年)で初めて突き詰めて分析したこの手法は、マルクス・アウレリウス(121~180)にまでさかのぼるほど長い伝統を持っているという。
イタリアの歴史学者であるカルロ・ギンズブルグの『糸と痕跡』(みすず書房)の「寛容と交易―アウエルバッハ、ヴォルテールを読む」に、ヴォルテールの異化効果を示す作品の一つとして、『雄鶏と雌鶏の対話』(1763年)が挙げられている。その中の、「一見したところ軽い調子で書かれたようにみえるわずかのページのなかで、雌鶏と雄鶏は互いに心の内をうち明けあう。どちらも去勢されているというのだ。世間のことを少しはよく知っている雄鶏は純真な雌鶏に自分たちを待ち受けている運命を告げ知らせる。殺され、煮て焼かれ、食べられてしまうだろう、と。ほどなくして料理助手がやってくる。雌鶏と雄鶏は別れの言葉を交わしあう。」という説明を読んで、諸星大二郎の『バイオの黙示録』(集英社)に収められている「養鶏場」という一編を思い浮べた。こちらは、人間の遺伝子が組み込まれた鶏という設定で、人間の言葉で会話し、顔も人面鶏といった趣で描かれている。動物を人間に例えるような比喩としての擬人化とは明らかに異なり、異化効果が持つ奇妙な違和感を読者に与える作品である。
2. ヴォルテールの異化
ヴォルテールの鶏は宗教的な、諸星の鶏は科学的な色彩を帯びているものの、どちらも啓蒙主義思想(17世紀後半~18世紀にかけて主流となった思想)の抱える両義性の問題と無縁ではいられないように見える。つまり、人間の無知を理性の光で取り払うという啓蒙主義の理念が、現状への批判的潜在力と多様性への寛容を有している一方で、当時の歴史的な限界として、そこから女性やユダヤ人といった特定のカテゴリーが抜け落ちているという両義性である。
ヴォルテールは理性の光の照射範囲を動物にまで広げているにもかかわらず、雌鶏にユダヤ人への偏見を叫ばせている。つまり、啓蒙主義思想の体現者であったヴォルテールが一方で人種主義者(レイシスト)であり、後の世の人種主義的イデオロギーが啓蒙主義思想を経た18世紀に端を発しているということは、大変示唆に富むと私には思われる。ただし、ヴォルテールが、当時の白人男性の常識的意識に盲目的に従っていただけではないと思わせる要素も、彼の残した文章から読み取ることもできる。『雄鶏と雌鶏の対話』では、雌鶏はユダヤ人を「種」、「人種」と言っていていたのに対し、ヴォルテール自身は「民俗」と表現しているという。その違いに、ギンズブルグは雌鶏=ヴォルテールではない、一定の距離を認めている。では、ヴォルテールのとった距離とはどういうものだったのだろうか。「罪のない犠牲者たちも偏見から自由なわけではない、とヴォルテールは皮肉っぽく示唆しているようにもみえる。雄鶏は人間たちを「わたしたちと同じように二本脚をしているが、羽毛はもっていないので、わたしたちよりもはるかに劣る動物」であると定義している。雄鶏と雌鶏はかれらの迫害者たちの偏見を分かちもっているわけである。そして、それは、かれらを滑稽であると同時に自分たちと近しい存在にしているのだ。」と、ギンズブルグは読み取る。ヴォルテールは、自分に偏見があることを認めると同時に、偏見を持たれる者にも同じ偏見を持たせている。寛容さの手法であったはずの異化が、不寛容さの同化として反転してしまっているようにみえる。
3.諸星大二郎の異化
諸星の異化は、このヴォルテールの不寛容さの同化を発展させ、人間と鶏の混合を推し進め(物語の最後には、養鶏場の経営者も鶏たちに襲われ、人面鶏の遺伝子に組み込まれていく)、結果的に多様性の自由さを失わしめている。掛け合わせでできる新しい品種は異化のようで同化であることを、諸星は、掛け合わされる品種間の不寛容さとともに示している。そこから、異化という手法の持つ照射の範囲がどのように拡げられ展開されていったかを見ることができる。つまり、自らへの批判と他者への寛容を喚起する作用があったこの手法が、ヴォルテールのように自らの属する現実の限界を土台にしていたことがあらわになり、さらに諸星のようにあるところで同化に転ずるという異化作用そのものの持つ限界をもまた照らし出すのである。
4.異化の光の届かない闇へ
否定の上に立つ寛容とは、鶏も人間と同じ生き物、同じ重さの生命を持つものとして認めるということではなく、鶏と人間は違うけれども違うまま認めるということであると私は考える。違いをいうこと自体が不寛容であるから違いを無視して同化させようとする態度は、結局は、世界の多様性を否定し寛容とは正反対の道をとり、人間の自由と種そのものの首を絞めるものになるのではないか。
ユダヤ人としてナチスに迫害を受けたアウエルバッハは、『ミメーシス』(1946年)でヴォルテールを取り上げている。アウエルバッハからみたヴォルテールは、後世のアウエルバッハ自身の事情もあり、啓蒙主義思想と異化効果の持つ寛容さよりも、不寛容さのほうを敏感に感じ取っている。ただ、ナチスとヴォルテールの間には、ギンズブルグが指摘するように単純な近さがあるとは思えない。歴史的限界と意図的な歴史は違う。そして、ここで問題になっている「違い」は、「同じ」の反対ではない。「同じ」の反対であるから、「違い」は反転して「同じ」になってしまう。しかしそもそも「違い」は反転しないものなのだ。難しいのは、例えていうならば、「同じ」が二次元に存在するとすれば、「違い」は三次元に存在し、にもかかわらず、私たちはどちらも網膜という二次元のスクリーンに映すことでしか感知できない、ということにあるだろう。それでも、ギンズブルグがやって見せているように、「違い」の残したわずかな痕跡から、その気配を掴むことは可能なのである。
(2014年1月10日改稿)